研究室何処へ
研究室の日々,大学の日々を綴ります
背負うもの、その先に
 研究室から見える風景は既に夜景です。午後、現職閣僚の自殺というニュースが駆け巡りました。理由はどうあれ、痛ましいことです。

 このニュースに触れて、というわけではありませんが、大学教員という立場にも少し想いを巡らせました。
 大学の研究者は気楽な商売だと考えられている方も多いと思いますが、日本の教育研究をリードするクラスの大学において、所属する各研究者に圧し掛かる職責に対するプレッシャーは、想像以上に大きいものだと思います。○○大学教授△△ という肩書は、時として一人歩きをはじめます。自分の知らない人から、自分の知らないところで、自分の仕事や業績が賞賛や批判に晒されるようになります。公的な場に出ることも増え、更に肩書が増えると共に、マスコミからも取材を受ける立場となります。脱げない冠の如くに大学名と肩書を背負い、学内外の演台で語ること・書くことのその先に、常に世間の目線が存在している感覚に囚われます。職業人として、常に○○大学の××分野における第一線の研究者でなければならない、という立場を背負うことを、逆に研究へのエネルギーに転換できればよいのでしょうが、常にそのように、というわけはいかないものです。
 もうひとつ、研究者は非常に孤独な存在です。オリジナリティと孤独とは表裏一体で、孤独に何かを突き詰め続けることでアイデンティティを確立しています。これまで多くの研究者を身近に見てきましたが、最先端の場所にいる研究者であればあるほど、孤独であるように感じます。独立した研究室を主宰していれば、そこで若い学生を育てながら、頭のどこかによぎる不安をも完全に払拭し、研究室の能力を信じて研究を引っ張り続けなければなりません。仲間はいても、基本的には非常に孤独な存在です。研究者としてステージアップすればするほど、逆に、葛藤や不安感が増大するというのは、因果なものです。
 
 そうした職責の重圧や孤独感にさいなまれながらも、それでもなお、走り続けていなければいられない、止まれないのが、研究者の宿命なのかも知れません。anywhereが育った研究室の教授は世界をリードする第一線の研究者ですが、おそらくanywhere以上の職責の重圧を感じながら、今日も走っているに違いありません。

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運営費交付金
 新聞のトップ記事が目を引きました。運営費交付金を研究成果などに基づいて再配分すると、85%の大学で交付金が減額となる一方、旧帝大を中心とする一部の大学では交付金が倍増する、という試算です。交付金が減額される大学リストには、各地の教育大学がずらりと並んでいました。科研費と運営交付金を連動させるという議論は、もともと性格を異にする2つの運営資金を同一視するということを意味します。再配分の考え方、基準について、今後様々な議論がなされるでしょう。

 旧帝大への科研費の配分の集中は、明らかに構造的な要因に基づいています。理工系の場合、旧帝大を中核とする研究者養成型の大学では、研究室を巣立った学生が研究者として主要大学の教員ポストに就任していきます。こうして旧帝大の研究室を巣立った研究者たちが、グループを組んでプロジェクト型の研究に参画し、大量の研究成果を出す基盤を形成します。この研究費の受け皿として研究組織の頂点に位置するのが、研究者のとりまとめ役を果たす旧帝大の研究室であり、昨今の大型化する研究費の獲得に接近するためには、こうした旧帝大の研究室を中核とする強固な研究組織が必要とされます。

 科研費は大学単位に交付されているように見えますが、大学間の壁を越えて研究者たちがグループを組んで申請できますので、研究者から見ると研究コミュニティ単位に交付されている感覚があります。科研費の配分は各大学の教育研究レベルを反映する、という議論が間違ってはいるとは思いませんが、各大学という組織に依存しない研究コミュニティ単位の研究レベルや趨勢にも基づいていることは明らかです。

 何はともあれ、教員養成系大学や芸大など、社会で一定のプロフェッショナリズムを発揮する人材の育成に特化して邁進する大学に対する評価が、競争原理において負け組?とされることには失望感を感じざるを得ません。芸大はこれまで、世界で活躍する芸術家を多く輩出してきました。地方の教員養成大学は、地域に優秀な教員を送り出すという重要な役割を担ってきました。科研費中心の画一的な評価は、逆に社会のあり方を歪め、ひいては全体にも影響を与えるでしょう。

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研究大学、教育大学
 大学教員が集まる飲み会で、「研究する大学」、「教育する大学」を選別し差別化することの是非について話題になりました。
 文科省は、数年前から国立大学を中心として、公立・私立大学も含め、研究教育に関する予算を特定大学に重点的に配分させるという政策をとっています。「研究する大学」としては、複数のCOEを同時展開するクラスの大学が想定され、大学は研究者養成機関としての役割を果たします。一方、それ以外の大学は、社会の様々な局面を支えるために必要となる知識や技能を身につけた幅広い人材を社会へと送り出す、という役割を果たすことが想定されます。
 教員の立場でいえば、もし前者の大学組織に所属するなら研究は思う存分できますが、そのマネジメント業務で日々のストレスを抱えることになるでしょう。一方、後者の大学組織に所属すれば日々の競争的環境からは開放されますが、相当の時間を講義や演習実験、学生指導に割かねばならなくなり、逆に研究に必要な時間や資金など研究資源が確保しづらくなる、といった問題が生じます。

 近年、文科省の政策が功を奏して、大学間格差が実態として拡がってきていると思います。少子化の影響もあって、学生確保に困難をきたす大学が増えるにつれて、学生教育に活路を見出すことで生き残りを図ろうと、ますます教育にコストをかけるという方向へ向かう大学がある一方で、トップレベルの大学では巨額の資金集中を活かし、更なる教育研究環境の充実を図っています。

 こうした差別化やポリシーの違いが、各研究分野の発展に与える影響を、今一度議論する時期に来ているように感じます。資金の集中配分によって世界的な研究教育拠点の形成が可能になるという議論に、疑問を感じることがあります。広く「教育する大学」にも一定の研究の素地を残すことによって、「教育する大学」から、予想外によい研究が発信される可能性が残されることになります。学問の発展には懐の深さが必要であり、そうした懐の深さが、学問分野の持続的な発展可能性を支えているような気がして、なりません。

院生と「うつ」
 院生、うつ、といったキーワードで、このブログにたどり着いている人が多数いることに気がつきました。大学院への進学者数が増大する一方で、こうした問題に直面し、昼間に大学に行くことができない学生、あるいは、下宿先などに引き篭もってしまう学生が、相当数に上っているのだと思います。今日はそういう人たちが読んでいることを意識して書こうと思います。

 理系の場合、研究室に配属になると原則として毎日、研究室に出入りするようになります。このため、調子の悪い学生が見つかりやすい構造になっています。
 抱えている事情はそれぞれに異なりますが、学部生や修士学生の場合は、研究が思うようにいかない、就職が決まらない、指導教員との関係がうまくいかない、といったことが引き金になっているように見受けられます。これに加え、博士課程では、研究成果が出ない、論文が書けない、論文査読が不調に終わる、将来の行く末が見えない、といった事情が加わります。博士後期課程は深刻で、そもそも後期まで進学するような学生はそれまでの学生生活が順風満帆で、更に自分の可能性を信じて賭けてきているような学生が多いので、その分、研究生活上のちょっとしたつまづきが大きな挫折に繋がってしまうようです。しかも、一度進学すれば後には引けない、つまり、学位取得するか、単位取得退学するか、いずれかになるしかないのが博士課程であり、修業年限も限られています。このため、人生経験の浅い若い学生が精神的に追い込まやすい環境なのだと思います。博士課程まで進学するような学生ですから、性格上、まあいいや、といった発想転換や妥協がなかなか出来づらいことだけは間違いありません。 
 いちどこうした状況に陥ってしまうと、そこから脱するにはかなり時間がかかってしまうかもしれません。この調子の悪い時期をうまく過ごすことが、何よりも大切です。大学の研究室や家族など、周囲の理解が欠かせません。いずれ研究成果が出始めると、こうした状態から脱する学生は多く、同時に生活のリズムも元に戻り始めます。
 活躍中の研究者であっても、いろいろ話を聞いていると、どん底の状態をくぐり抜けて研究者という職業にたどり着いている人は、とても多いものです。かくいうanywhereも同様です。人生は長いので、マイペースでやらねば疲れが出てしまいます。そうして過ごしているうちに、よい時期が必ず、誰のもとにも巡り来ることになるでしょう。

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ゴールデンウィーク
 ゴールデンウィークが過ぎようとしています。学会発表用の原稿作成など、小さな仕事をこなしつつも、久しぶりにのんびりと過ごした連休でした。

 連休中に、出身研究室の博士課程の現役学生と食事をする機会がありました。研究成果が思ったように上がっていないようで、精神的にだいぶ参っているようでした。話は研究内容や指導教員との関係、論文査読、研究室での仕事などに及びました。休日だというのに趣味や旅行の話は何もなく、研究や研究室の話ばかりが続きました。取り立てて叱咤激励するでもなく、淡々と本人の話を聞きました。

 学生と別れて、夜風に吹かれて町を歩きながら、自分の博士課程の頃を思い出していました。当時の自分も余裕がなく、気晴らしに町に出ても、頭の中では研究のことばかり考えていました。一時も休まる時がない、と言えば言い過ぎですが、結果的にはストイックな生活になりました。
 今もいろいろなストレスがありますが、博士課程の頃のように純粋に研究できる日々が懐かしくもあります。教員になれば、教育研究に加え、学内業務、外部資金の獲得、国際会議の資金繰りなど、研究以外の悩みも次々と尽きることがありません。しかし、気分転換はかなり上手くなったように思います。これも博士課程の成果かもしれません。

 




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大学院進学
大学院「内部進学者」を3割未満にとの記事で、「5号館のつぶやき」のstochinaiさんのコメントを読みました。−格差がどんどん広がっていくような危惧−という指摘に同感で、大学院を取り巻く問題の難しさを物語っていると思います。
  
 旧帝大理工系学部や一部の私大理工系学部では、学部生の大多数が大学院への進学を希望します。学部と大学院を併せ持つanywhereの勤務先でも、同様の状況になっています。4年生の夏に行われる院試では、内部進学者は4年時の所属研究室を希望するのが通常であり、進学希望者はそのほとんどが、希望どおり、所属研究室に配属されます。つまり、研究室では事実上、学部4年+修士1年&2年の3年間一貫教育(正確には6年間一貫教育)が行われています。学生も教員も大学院進学の意思が固まる時点において、学生が所属研究室以外の研究室に進学するケースを想定していません。所属研究室以外の研究室に進学するのは、院試の成績上の問題が生じた場合に限られており、それは想定外のケースともいえる状況です。稀に、院試の結果として希望する研究室の配属に必要な成績に届かず他の研究室に配属された場合に、4年生に配属された研究室で留年して翌年の院試に挑むことを選択する学生すらいます。こうした状況下にあって、内部進学者が3割に制限されることは、学部生のマインドや研究室の教育研究の前提を一変させることになるものと思われます。

 多様な人材を受け入れることは研究室の活性化につながる可能性もあります。これは好ましいことですが、その一方で、研究室はこれまで以上に多様な学部教育のバックグラウンドを有する学生に対応しなければならなくなるでしょう。3年間一貫教育体制が崩れると、研究室全体としての研究遂行能力や、学生による研究室の自律的運営組織の維持に、影響が及ぶ可能性もあります。教員にとってこうした事態は懸念すべきことであり、結果として、院試が完全一般入試化したとしても、所属研究室の学生に有利な試験問題(所属大学で講義されている内容に極めて接近しており、所属研究室の学生しか詳細を知り得ないような、ある意味での特殊領域の問題)を出題することで、極力内部進学希望者を有利な状況において合格させようとする動きが出てくるかも知れません。大学院が抱える事情は大学によりそれぞれ異なり、非常に複雑であり、単純に内部進学者を3割以下に絞り込むことだけでは問題は解決しないように思えます。

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